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2010年6月の記事

2010年6月30日 (水)

「カセットテープ」を知らない子どもたち。

5歳の娘がおじいちゃんにカセットテープをもらった様子。
キティちゃんが書いてある新品。
それを持って来て「これ見たい!」と言うのである。

ビデオはよく見ているので、それと同じものと思ったのか。
嫁が「カセットテープを見るのは初めてかも」と。

そう、やつらは、カセットテープを知らないのではないか?

「ハイポジション」とか書いてあるのがなつかしい。

2010年6月16日 (水)

カマキリとあけび。

梅雨入り当日、庭に生えているあけびを見ると、
いくつか実がなっていた。
Img_7728


カマキリの子ども。
Img_7725


2010年6月15日 (火)

息子に初の筒井康隆作品読み聞かせ。

小学3年生の息子。
学校で「読書週間」のようなものをやっているらしく、
「お父ちゃんと一緒に本を読む」と言う。
このような「読書週間」は、今までにも数回あって、
2年生の真ん中くらいまでは、ご本人がお気に入りの本を読んだり、
お父ちゃんのおすすめとして星新一さんなんかを一緒に読んでいた。

ところが、最近では自分だけで黙々と読書するようになっていた。
なんかおもしろい本を借りてきて読んでいるらしい。
寝る前に、保育園に通う下の子に絵本を読んでいるが、
それに興味を示すことは少なくなっていた。

そういうわけで、「お父ちゃんと読む」なんつーのは珍しいわけで、
ここで選ぶ本を誤ってはいかんなぁ、と思ったので、
ついに筒井康隆さんの出番であると判断した。

筒井さんは、少年少女向けの、いわゆる「ジュブナイル」というものをいくつか書かれている。
それでも、小学3年生にはやや難しいのでは、と思うものの、
お話がめちゃくちゃならきっとおもしろがってくれるだろう、ということで「細菌人間」。

いきなりお父さんがおかしくなって、ガソリンを飲んだりしているので、
それはもう、不気味な、恐ろしい声で読んでやった。
このごろは、ファンタジー系の小説などを読んで、どういうわけかしらないが、
ひとりでトイレに行けなくなるくらいびびっているようなのだが、
意外に平気な顔をしているので、それは強がりなのか? と思ったりもする。
そのお父さんが、夜、主人公の少年の部屋に廊下を「ミシリ ミシリ」と
音をさせて近づいてくる場面なんかは、やたらと「、」が多く、
ここぞとばかりに、ためてためて、読みました。でも、あんまり怖がってなかった。

これは、もう40年くらい前に書かれた作品だと思います。
ですから、今では「不適切な表現」と言われているようなことばが出て来るんですなぁ。
ごまかしたりするのも不適切だから、普通に読んでますけど。
(ああ、「無人警察」のこと思い出した)

当然、息子は、そこで何か反応するようなことはないですよ。
大人的にいえば「差別語」だったり「侮蔑語」だったりすることばですが、
何も知らない子どもにとっては、どれも等しく、ただの「ことば(?)」なんでしょう。
その、ただの「ことば」に差別的な意味を加えたりするのは、
大人になって、いろんな知恵をつけてからなのだねぇ。

2010年6月11日 (金)

サファイア著「プッシュ」。

映画「プレシャス」の原作。
1950年うまれのサファイアさん(本名 ラモーナ・ロフトン)の小説。

「あたし、12さいのとき、らくだいさせられた。」で始まる。
プレシャス(この本では「プリシャス」となっている)は読み書きができないので、
このような調子でお話はすすむ。

書いてある出来事が壮絶なのに、
幼稚な文章で書いてあるのが痛々しい。
なんとかならんもんか、と思ってしまう。

映画を観たあと「プレシャスは子どもに本をたくさん読んであげてるのかなぁ」と思ったが、
原作には、たくさん本を読んであげているような事が書かれていたので、
なんだかほっとしたのであります。

プレシャスの通う代替学校の教師ブルー・レイン先生が
「 "もし" と "でも" は、いちばん役立たずの単語」と教える。
いずれも過去にいろいろあった生徒たちの通う学校だからか。
過去のことをぐだぐだ言っても仕方ない、ってことなのかしらん。
すごい前向き?

本の終わりに、プレシャス以外の生徒たちの文章が書かれていた。
みんな、幸せになれよ、と思ってしまう。

映画の悪影響についての北野武監督の発言に関する水道橋博士のツイートを引用。

水道橋博士さんのツイッターで、いいものを発見した。
「海外の取材でもこの台詞は繰り返した。」で始まるつぶやき。
たぶん「アウトレイジ」に関する北野武監督の発言。
「暴力映画で社会に対する悪影響は?」に対しての答えだと思います。

(ここから、ツイートの一部を引用)
  「愛と感動の映画が社会に対してどれだけいいことしたんだ、
   暴力映画よりも圧倒的に数が多いのに、
   あんなめちゃくちゃなことが起きてんのに映画の影響がどこにあるんだよ。
   暴力映画なんて屁みたいなもんだよ」
(引用おわり)

わたくしには、なんとなく、わかっているんだけど、
それをどう言葉にしていいかわからないことがたくさんあるのですが、
それをはっきりわかりやすく言葉にしてくれる人がいます。
そういう人たちのことを、ほんとに尊敬します。

(以下、水道橋博士さんのツイートをそのままコピーしました)
海外の取材でもこの台詞は繰り返した。
北野監督「暴力映画で社会に対する悪影響は?」
「愛と感動の映画が社会に対してどれだけいいことしたんだ、
暴力映画よりも圧倒的に数が多いのに、あんなめちゃくちゃなことが起きてんのに
映画の影響がどこにあるんだよ。暴力映画なんて屁みたいなもんだよ
(以上)

2010年6月10日 (木)

「ブラスト公論」を強力に勧めます。

「ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」とゆー本が4月に発売されました。
ヒップホップ/R&B専門誌「BLAST」に連載されていた座談会で、
2006年に一度発売されていたらしいのですが、
今回はその「増補新装版」ということらしいです。

座談会のメンバーは
ライムスター宇多丸さん
古川耕さん(アニメ/ヒップホップライター、小説家)
郷原紀幸さん(学習塾経営)
高橋芳朗さん(音楽ジャーナリスト)
前原猛さん(カメラマン)
の5人です。

わたくしは、この「ブラスト公論」を強力にお勧めします。
読むべきです!

ここに出てくる5人のような会話が、もし日本中でされていたとしたら、
どれだけ楽しいことか!
また、なんか気持ち悪いなー、と思っていた世の中の出来事などなども、ばっさり!
美談にも冷や水をぶっかけてますし。

井川遥さんにやたらこだわってる人もいたりして、とってもおもしろいです。

ぜひ、アマゾンなどで買ってください。

2010年6月 7日 (月)

「死ねばいいのに」って有名な(?)ことばだったんですね。

京極夏彦さんの「死ねばいいのに」を読んだ。

先日、「大竹まこと ゴールデンラジオ!」出演した事について、
いろいろ感想を書いてみたところですが、
講談社のサイトに
京極夏彦著『死ねばいいのに』iPad版電子書籍等配信・販売に関する記者会見について
として、京極さんの所見が掲載されていました。

また、日経BP社のサイトにこの会見の記事が載っていまして、
「紙か電子かと幼稚な議論する場合ではない」との発言が書かれていました。

やはり、フォントやレイアウトについて考えるところがあるようです。
InDesignで、「うーむ、0.3Q詰めてみたらどうなるだろう?」とかやってる人間にとって、
電子書籍でいかに組版の完成度を高めるか、という課題もあるのでしょう。
そんなわけで、もう「紙の本がどうの」と言っている段階ではないのですね。

さて、「死ねばいいのに」について。
この「死ねばいいのに」って、検索してみると結構有名(?)な言葉なんですね。
「夫/死んでほしい」みたいなものなんでしょうか。
どういうときにこの言葉を使うのか、というようなサイトが出て来たりして。
その辺も踏まえて読んだらよかったのでしょうか。
ケンヤ君はいわゆる「最近の若者」なんですが、
京極さんは「ゴールデンラジオ」で「最近の若者はけしからん」的な事に関しては、
否定的な発言をしていました。
そのせいか、頭も悪いケンヤが、お話が進むと、他人に説教(?!)する側になり、
しかもどうやら痛いところをつかれるというか、
「大人って、きたないし、めんどくせー」と思わせられてしまうという!

正義? 善? 無垢? そんな言葉があたまに浮かびますが、
だまされちゃだめ! 子どもじゃねーか! と、抵抗してみました。
でも、絶対、ケンヤにつっこまれるんだろうな。

正直に生きていきたくなる本でした。

2010年6月 6日 (日)

やっと、カマキリが孵化しましたねー。

子どものころからカマキリが好きで、
今になっても、カマキリを発見すると気分があがるのであります。

うちのまわりでも毎年カマキリがみられ、
時として、卵を産んでいるところや、卵から孵るところなんかが見られたりします。

いつもですと、だいたいゴールデンウイーク頃には孵化していて、
家の壁にびっしりと赤ちゃんカマキリがいるのをみることができていたのですが、
今年はなぜかみられず。
知らないうちに産まれていて、どこかへ行ってしまったのかなぁと思っていたら、
先日、天井に赤ちゃんが一匹いるのを発見。
また、外に出てみると、コカマキリの赤ちゃんも大量に発見。

どうなんでしょう、今年は孵化するのが遅いのでしょうか。

2010年6月 4日 (金)

「プレシャス」。「誰もが愛される権利をもつ」意味。

映画「プレシャス」。
名古屋では「伏見ミリオン座」のみでの上映。
はじまってから1ヶ月くらい経っているのですが、
思ったより人は入っていました。

主人公プレシャスの母親役を演じたモニークさんは、
アカデミー助演女優賞を受賞しました。その時のスピーチや受賞後の会見で、
「誰にでも愛される権利がある」というような事を頻繁に発言していました。
わたくしは、プレシャスだって愛されなければならないはず、
というような趣旨だと思っていました。

映画を観てみると、まあその通りなのだけど
プレシャスを虐待し、まともに扱っていない母親にも、
誰かに愛される権利があるのだなあ、とおもいました。

この母親は、映画終盤で、いかに自分が愛されたかったか、とか
また、自分に与えられると期待した愛が、
娘のプレシャスに奪われたのだ、とか主張するのですが、
この場面をみると、少しは同情もするし、
この人だって愛されてると実感できてたら
ひょっとするともう少しまともな生活を送れていたかもしれない
と思うのです。

どこかで誰かが愛されてないと、そこから不幸の連鎖が始まりかねない、
ということでしょうか。

プレシャス自身は映画の中で、徐々に他人から愛されてる、
ということを感じているらしく、
正確には覚えていませんが「なんかあたたかくなる」みたいなセリフが
ありました。ここがとっても微笑ましくて、ほっとしました。

しかしまあ、父親が死んで衝撃の事実が発覚し、
また突き落とされるのですが。
まさしくプレシャスにとっては"Why me?"と言うしかないです。

感想として、よく「最後は多少の希望が感じられて救われた」
というのがあります。
プレシャスが代替学校に通い勉強することによって「知る」ことを知り、
そして自分の母親や母親との暮らしがどのようなものだったかを「知り」、
母親には「もう会わない」と言い放ち、ふたりのこどもと、歩いていく。
ああ、やっと終わったんだね、と思う場面です。

だけどそこからもまだ厳しいよね。
日常は続いていくよ。
プレシャスにとっては、まだまだ住みにくい世の中だろうし。
だけど、こどもたちにたくさん本を読んであげてちょーだいね、

2010年6月 2日 (水)

サイモン・シンさんの「暗号解読」を半分寝ながら読む。

この前「フェルマーの最終定理」がとてもよかったので、「暗号解読」も。

「公開鍵」というものについて、その言葉は良く聞くのだが、
非常に素朴に「鍵を公開? そんなことしたら、みんなわかっちゃうじゃん」と
疑問がぬぐい去れなかったわたくし。
この本でわかるか? と思ってましたが、まあ、おぼろげながら、仕組みがわかったというか。

「一方向関数」ってゆーんですね!
そういう理解でいいんですかっ?!

数学などを駆使して、解読されない暗号を開発しているようですが、
ただたんに、計算ばっかしてるわけではなく、
どんどんどんどん飛躍していって、とんでもないところからアイデアを引っ張り出すんですね。

この本、つまらないわけじゃないんですが、
どうにも眠くなりまして…。
なかなか進みませんでした。

2010年6月 1日 (火)

先日、5月24日の「大竹まこと ゴールデンラジオ!」での京極夏彦さんが面白かった件。
というタイトルで書いた文章の続きです。

「活字離れ」ということばについて京極さんは
「すでに活字なんかない、ほとんどがDTPだし、ネットなどで文字に触れている」
というような趣旨のことをいっていました。
離れる、ということを心配しているようだが、もうすでに、ないのだよ、と。

京極さんが言う「活字」がなにを指すのか、それは活版印刷で使用する文字の型のことでしょう。
(活版印刷は、一部で残ってはいますが)
では、一般に「活字離れ」という言葉でいわれる「活字」は、なにを指すのか、
それは多分、文字そのもののことなんでしょう。文字を読まない、ということでしょう。
「活字」を離れてどこにいくのか? 漫画や携帯(?)ってこと?
京極さんはそういうものにすら「文字」があるということを言ってもいるわけです。

なんだか、言葉の定義の違いを指摘するこまかい話のように思われるかもしれませんが、
こういう前提が誤っていると、提起される問題が「存在しない」ことになりかねませんよね。

そういう事情やらを知らずして、いかにも「活字離れ」などという問題があるかのような事を言い、
さてその問題をどう解決するのか? などと考えたところで、
検討違いの方向にいくのはあたりまえですね。

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